教育の意義

おはようございます。誰か書いてくれ Advent Calendar 2020の5日目を書くことになってるたつた(@tttaage)です

このブログでは、大学生となった僕がコロナ禍で感じたことや考えたことについて書きます

書いている現在、実験レポートが2通溜まっているんですけどもうめんどくさすぎて逃げています。

投稿が少し遅れてしまいすみません。

 

このブログ自体がかなり偏った自分の思い込みやインプットしている知識によるものなのであくまでご了承ください

 

僕がこのブログで書きたいのは「教育とは」というテーマについてです。

僕は今年の夏から、主に小中学生を対象としたプログラミング教室にアルバイト講師として働いています。これまで自分は若いと言われ続けながら生きてきたのですが、干支が一回り以上違う子供たちと会話する機会というのはほとんどなかったので経験したことがなかったので楽しいですね。大体の子が鬼滅の刃であったりフォートナイトの話題で盛り上がっていて流行というのは裏切らないもんだなとちょっとだけほえぇとなりました(どういう感情なんでしょうね)。

 そこでの気付きであったり改めて教育とはどうあるべきか、その改善点などについて考えるようになりました。

問題提起が大半になってしまったりざっくりしすぎて結局何が言いたいのか書いている自分でも正直なところ良く分かっていないのですが、少しでも自分の意見が理解されれば幸いです。

 

 

 

小学校におけるプログラミング教育の難しさ

やはり小学生にプログラミングを教えてて一番難しいのは「英語を理解していない」という点です。基本的にプログラミング言語はアルファベットや数字の羅列だし、プログラミング用語というものも英語を由来とするものが多いです。僕が初めてプログラミングを学んだのは高専に入ってからなので少なからず中学で基本的な英単語であったり文法を学習しているのでキーボードにも打つのもそこそこのスピードで入力できてました。ただ、小学校で英語教育が低学年から行われているとはいえ、単語を覚えるという内容は少ないらしく、例えば「count」という変数を作ってと口頭いうと、その変数の名前は「kaunnto」になってしまっていたんです。は?とちょっとだけイライラしたんですけど彼らにとってはそれが正解なんですね。プログラミングを教えてるつもりなのにいつの間にか英単語の説明をしてしまっていました。「プログラミング的思考」を学習するたに視覚的に分かりやすいプログラムを作成するカリキュラムなのですが、そういった一部では立ち止まるケースが多いですね。

でも小学生からプログラミングをしてるなんて凄くないですか?僕は小学生のころなんてなけなしのお小遣いで遊戯王カードを買ったり近所の公園で缶蹴りとかしかしてませんでした。生徒の多くがほかにも習い事を多くやっていて、中学受験だから高学年になると退会するケースが一番多いらしいです。教えといて言うのもなんですが、そんな子たちとが社会に出てきて競争できる気がしねぇ笑。ただ、今は電子系の知識を広めて高専に誘導して優秀な後輩を生み出したいです。

 

勉強の自己責任論

現代日本において、個人の学歴や学校歴という一種のステータスは、「個人の努力の賜物」という位置づけが多いように感じます。それは決して間違っていないし、夜遅くであったり遊ぶ時間を割いて学習に値込んできたからこそ得られたものであるというのは疑いようもない事実です。しかし、「それらの努力はなぜ行うことが出来たのか」ということに着目する必要があると思います。まず、努力を行うには環境が必要です。日本において教育は小中学校の義務教育しか保証されていません。また学習には必ず一定の金額が必要になります。奨学金などの制度を除いて、中等教育や高等教育を行う年齢である10代や20代はそれだけの金額を自分の労働や所得により得ることは非常に困難です。そのため、それらのお金は親権者であったり養育者が負担します。それはつまり、「親権者や養育者の所得に応じて教育に費やすことのできる額が異なる」ということを指します。どのような教育を選択し、受けるというのは個人の自由ですが、その内容でや量は所得の少ない家庭であれば数を絞ったり、クオリティを妥協し選択する必要に迫られます。人に与えられた時間は等しいものですが、それらの使い方は費やされた金額によって大きく変化します。高額なものほど子供にとって努力できる環境が整ったよい学習機会を得られ、良い学習能力の育成が期待されます。努力を評価することはとても大切ですが、努力する方法を知らず間違った努力をしてしまったり、そもそも努力する機会を与えられなかった人間を無視してしまっては何も生まれないのではないでしょうか。

 

 

 

公平と平等の違い

まず、平等、公平とはどういう違いがあるのか、辞書の記載は以下の通りです

平等:差別がなくみな一様に等しいこと。

公平:判断・行動に当たり、いずれにもかたよらず、えこひいきしないこと。

具体例を挙げるとするならば、公平な審判という言葉は意味が通用しても、平等な審判といわれるとちょっとしっくりこないし、平等な権利というけど公平な権利とはあまり言わないのではないでしょうか。

違いをはっきりと説明しようと思ったんですけど自分の説明力がなかったので省きます。今日において、学校への入学試験という「公平」であるとは非常に重視されます。入学試験でカンニングであったり替え玉受験なんてものはもしも発覚したら当然入学資格が取り消されることになるでしょう。また、それは試験を行う側も同じであり少し前ではありますが性に応じて合否の一部に考慮されてしまった医学部も非難の対象となりました。

では、「平等な試験」とはいったいどういうものなのでしょうか。あまり聞きなれない言葉ではありますが、試験における平等というのは、それまでの試験を受けるまでのバックグラウンドを指していると僕は思います。

先程の内容と一部被る内容とはなってしまいますが、試験とはなるべく全員を一律の基準で判定することを理想とします。しかし、その試験に至るまでの過程は受験者によって千差万別です。例えば進学校と呼ばれる中学校や高校では、それらの学年ののカリキュラムにとどまらず発展した内容であったり、大学受験に向けた勉強を早いうちから行います。一方で通常の高校生はそれぞれの学年で習うべきカリキュラムを学習し、大学受験の勉強というのはプラスアルファで各個人に一任されてしまいます。大学受験におけるゴールに向けての徒競走と置き換えれば多額の授業料を支払っている進学校と公立高校の生徒ではまずスタートラインが異なりますし、そこからのスピードも圧倒的で勝負になってるかすら怪しいです。試験の受験者数が膨大なため各個人に合わせた試験というのは非常に困難であるのは当然ではありますが、より各個人なりに努力したことが認められて合格できるような試験内容になればいいなと思います。

 

最後に 

 

以上で自分の意見となります。正直なことを言うと、日ごろからよくこういう事柄について考えたりするのですが、いざ文字に起こしてみると客観的的なデータが少なかったり、論述的な文章の作成する力がなさ過ぎて結構な時間を費やしてしましました。自分が日頃呼んでいる著者の方がどれほどの労力で一冊を完成させているのか、少しだけですが分かった気がします。

これからの自分の課題としては、何か行動を起こすことですね。格差とは必ずしも存在しますし、その格差をなくそうとするのならば旧ソビエトのような社会主義国家となってしまうわけで、それが破綻の道であることは歴史に学べば一目瞭然です。この資本主義国家において、格差は存在してもよいが、個人の機会の平等の確保は政府であったり社会の役割であるため、一個人でどうこうなる問題ではないのですが、少しずつだけでも自分なりの解決策を探す努力を継続して行っていきたいと思います。

 

読んでいただいてありがとうございました。